Footprints

弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

会社勤務時代(2)2つ目のプロジェクト

2つ目のプロジェクトは,さらに規模が大きいプロジェクトだった。


今回はBPR(ビジネスプロセスエンジニアリング)の一環として外資ERPパッケージソフトの導入を目的とするものだったが,会計だけでなく,販売物流,在庫,生産管理など,製造業のほぼすべての基幹業務をカバーするもので(ビッグバン導入と言われていた),日本においては当時まだ珍しいプロジェクトだった。ちなみに,そのプロジェクトでは生産・販売・在庫のロジスティックス系をまとめて生販在と呼んでいた。ここでも私は「性犯罪?」と聞こえた。本番稼働の時期は1999年4月。2年以上先で,気の遠くなる話だった。


ここでアサインされたのは,技術チームだった。このシステムのインフラ部分を構築,運用するチームで,言ってみれば後方支援部隊だった。ここでもクライアントと直接接する機会はあまりなく,何のためにコンサル会社に入ったのだろう,と疑問を抱くようになった。


当時,社内にこのパッケージソフトを用いた開発実績があまりなく,急遽,アメリカに行ってトレーニングを受けてくることになった。まだプロジェクトも上流工程で,新人が出る幕も少なかったというのもその理由だった。トレーニングといっても1週間だけで,要するにプログラミング言語と開発環境を習得するのが目的だった。


プロジェクトには会社のメンバーが20人くらいいたが,新人は私ともう一人いた。まだまだ要件定義と呼ばれる上流工程だったので,新人はあまり必要なかったからだ。この二人は格好の標的となった。飲みに行けば,二次会の場所を探すために走り回り,話題が尽きれば訳もなくいじられ,極めて体育会的なノリだった(でも嫌いではなかった)。すぐに翌年入社の新人が大量に入ってきたので,その期間は短かった。


技術チームでは,コーディング標準などの開発標準を策定したり,サンプルのコード,各アプリケーションで使う共通部品のコードを書いたりしていた。パフォーマンスの良いコードを検証し,順次,開発者のガイドラインに反映させたりした。


しかし,自分のやりたかったこととは違うという違和感がずっと燻っていたので,所属換えを希望した。いろいろあったが,出す側,受け入れる側それぞれのマネジャーが理解を示してくれたお蔭で,1998年4月入社の新人(2年下)研修担当のために6週間プロジェクトから離脱し,その後は技術チームから固定資産チームに移籍した。


クライアントは,プラント設備を有していたので,固定資産の管理が重要だった。チームには,協力会社を含めて10名ほどいて,自分はチームの開発リーダーとして,プログラマに仕様書を書き,上がってきたコードをレビューし,進捗を管理し,自分でも開発者としてコードを書くという作業が続いた。


仕事が終わる時間はかなり遅かったが,あまり休日出勤した記憶はなく,比較的穏やかだったように思う。チームの拠点は四日市のプラント内にあり,夜中や週末になると四日市でお店のお酒がなくなるまで飲んだ。


そうこうするうちに,果てしなく先に思えた本番稼働が近づいてきた。固定資産チームは想定以上に進捗がよく,1999年を迎えたころには徐々に人も他のプロジェクトや他のチームに移籍するなどして,チーム全体の仕事量が減ってきた。


本番稼働を2カ月先に控えた1999年2月,開発を統括するアソシエートパートナー(AP)から「おい,ちょっと来てくれ」と喫煙所に呼ばれた。このAPは,一日で5から7箱吸うという超ヘビースモーカーだった。私はシステム本番稼働直後に結婚式を控えていて,このAPを主賓として招待していた。普段,直接会話することはあまりないので,呼び出されたのは,主賓挨拶の件かな,と思った。


「あのな,大阪行ってくれねぇかな?できれば,すぐにでも。」


話は,立ち上がったばかりのプロジェクトに行け,という内容だった。あの,再来月結婚式ありますけど,などと言おうと思ったところ,


「次の大阪が人生最後のプロジェクトになりそうなんだ。だからベストのメンバーで臨みたい」


と切り出された。意味が分からなかったが,タバコの吸い過ぎで健康を害していて,まともに仕事をできる体ではなくなっていた,ということを告げられた。集大成となるプロジェクト。信頼できるメンツを集めてやる厳しいプロジェクトというのは魅力的にも映った。


週末には毎週東京に戻ること,平日はホテル住まい,往復交通費は全額会社支給とすることを試しに条件提示したところ,二つ返事で了承されたので,もはや拒否はできなかった。こうして本番稼働目前のプロジェクトから離脱し,結婚式の1か月前に単身赴任生活がスタートすることになった。


ちなみに,体調を崩したはずのAPは,その後15年近く経過した現在も健在である。