Footprints

弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

会社勤務時代(1)ファーストプロジェクト

弁護士になるために法科大学院に入学したのは2004年4月。それ以前に2社合計8年間のサラリーマン経験がある。当時身につけたスキル,経験,人脈は(効率的ではないかもしれないけれど)今の仕事の基礎となっていることは間違いない。


最近,こちらのブログの更新をさぼっているのは時間不足とネタ不足が原因だけれど,当時の仕事を振り返ってみることにしたい。


なお,守秘義務の観点から,敢えてデフォルメしたり,脚色したり,記憶が無意識のうちに美化されている部分もある点はご容赦を。


弁護士業は,同時並行に多数の事件,取引を取り扱うことが一般的。長い訴訟ならば5年くらいかかることもあるけれど,その間,ずっと一つの事件に専従することもない。他方,私がいたシステム系コンサル会社の業界では,原則として一つのプロジェクトに全自分のリソースを投入する。冒頭で2社8年間と書いたが,極めて短期のヘルプなどは別とすると,その間に従事したクライアントは全部で4社だけ。だから,いずれも非常に内容が濃かった。


最初のプロジェクト。


私が新卒で入社した会社は外資系で,もうすでに組織は変わってしまったけれど,当時はビッグ6と呼ばれていた大手会計事務所を母体とするグローバル・コンサルティングファームだった。入社は1996年5月。入社月が5月というのは変則的だけれど,入社後行われる研修を平準化するために,内定者は入社月を3月,4月,5月,7月の中から選択することができた。


1996年5月16日入社は26人。国内と本社(US)での1カ月ずつの研修を終えて戻ってくると7月の終わり。そこで最初のプロジェクトにアサインされたが,まだそこでは新人に任せられる仕事はないということで,しばらくアイドリングした後,9月には火を噴いている別のプロジェクトにレンタルされることになった。


そのプロジェクトは,当時まだ珍しかった外資ERPパッケージを利用して経理システムを全面的に刷新するというもので,3年くらいかけて企画,設計された経理システムの稼働が1997年1月(4カ月後)に控えており,100人以上のプロジェクトメンバーが殺気立っている慌ただしい状況だった。


ちなみに,開発中のシステムは「第三次経理システム」と呼ばれていて,初めて聞いたときは「大惨事経理システム」に聞こえた。


私がアサインされたチームは,データ移行チーム。移行と言われても,当時は意味がわからなかったが,要するに旧システムのデータを新システムに移すのがミッションだった。これがいうほど簡単ではない。データの意味づけ,形式が異なったりするから変換が必要だったり,旧システムでは不整合が生じていたデータをきれいにするクレンジング作業なども必要だったりする。切り替えの限られたタイミングで大量データを間違いなく処理しなければならない。データの種類は多種多様あり,得意先(顧客)だけでも数十万件あった。


ExcelAccess,あるいはviに向かい合って,データの不整合がないかチェックしたり補正したりするツールを作った。チームにはツールを作ったりプログラミングしたりするなどの手を動かせる人があまりいなかったので重宝された。コンサル企業に入ったが,クライアントと会話することはゼロだった。作業環境は悪く,脱いだコートや上着を置く場所がなくて,ディスプレイ(当時は液晶ではなくCRT)の上に畳んで置いていた。


移行チームは別名,移行インターナショナルなどと呼ばれた。その名のとおり,国籍不明の人がいたり,複数の企業から構成されていた。メンバーも入れ替わりが激しかった。あるときインド人がやってきたが,日本語がとても上手だった。あいさつメールに「恐悦至極に存じます」みたいな誰も使わない日本語が書かれていたかと思うと,末尾には「よろしくたのむな」と急にフランクになってて吹いた。


来る日も来る日もVBAcsh,viなどとの格闘だった。当時のPCのOSはWindows 3.1で,Excelの行数も限定されていて,無駄な処理をするマクロを作ったり,ワークシート関数を使いすぎたりするとすぐにフリーズした。試行錯誤しながらデータをきれいにしたり,リハーサルをしたりして来るべき本番稼働に備えていった。


年末が近づいてくると,家に帰る余裕はなく,近くにビジネスホテルが用意され,疲れて動けなくなると,ホテルに行くことが許され,その5,6時間後には電話で呼び出される,ということが繰り返されて,曜日や時間の感覚が失われていった。


そんな中でも,先輩たちにはかわいがってもらえたと思う。よく機嫌を損ねる生意気な新人のガスを抜くために,焼肉やおねえさんのいる店に連れて行ってもらった。休日に「駐禁取られるとイヤだからさ,1時間ごとにクルマを少しずつ動かしといて」といって隣のチームのマネジャーにBMW525iのキーを渡されたこともあった。


新システムの本番稼働は1997年の最初の営業日,1月6日だった。その前年の最終営業日から正月休みが,移行チームがもっとも活躍する時期だった。社会人になってはじめて上京したのに最初の正月に帰省できないのは残念だと思ったが,新人に配慮してもらったおかげで,12月31日の夜に解放された。プロジェクトルームからそのまま東京駅に向かって新幹線に乗って帰省し,1月2日の昼に戻ってきた。結局,無事に第三次経理システムは本番稼働を迎え,その日のうちに私はリリースされた。そして,その翌日には2つ目のプロジェクト(もともとレンタルだったので元のプロジェクト)に行くことになった。


たった4カ月くらいだったが,非常に中身の濃い経験をした。


(つづく)