Footprints

弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

会社勤務時代(3)3つ目のプロジェクト

結婚式の1か月前の1999年3月にスタートした単身赴任生活。関西に長期滞在するのは初めてのことだ。


このときの生活は今思い出しても辛い。月曜朝9時にクライアントのプロジェクトルームに到着するためには,月曜の始発のぞみ(6時00分東京発)に乗る必要がある。地下鉄の接続が悪いので,家を出るのは4時50分くらいだったから,日曜夜になると憂鬱さがハンパなかった。徐々に忙しくなって,そのうち家に戻ることもままならなくなるのだが。


今回のプロジェクトは,当時流行していたサプライチェーンマネジメント(SCM)の実現だった。営業が入力した需要予測数値に基づいて原材料の数量をはじき出し,在庫量を勘案して製造指図や調達指示を出す。ここまでは昔からあったMRPの発想だったが,リードタイム短縮のために,中間部品の備蓄,利用など,複雑な制約条件を考慮しなければならなかった。また,需要の確度を考慮した生産計画を立案しなければならなかった(営業の予測値を全部生産していたのではキャパオーバーするし,余剰在庫を抱える)。


プロジェクト全体の規模は,前回のものよりはだいぶ小さいが,本番稼働は2000年3月。1年間しかなかった。戦略チームと呼ばれる人たちが事前に策定したサプライチェーン戦略をシステム設計に落とし込むところから作業を始めたが,書かれた処理,手順がどう考えてもシステム上,実装できない,あるいは,実装しても矛盾だらけになる,という場面がたくさん出てきたため,作業は難航した。


どう考えても間に合わない,という状況の中で,スーパープログラマが現れた。同じ会社に勤めていたが,体調を崩して辞めた後,フリーランスプログラマをやっているという。確かに,仕事がめちゃくちゃ早い。頭も抜群に良いので,こちらが丁寧な仕様書を作らずに,少し説明すると「あー,なるほどね」と言って,こちらの説明が足りないところまで補うものを作ってくれる。


ただし,難点は,気まぐれに仕事を休んでしまうこと。進捗が遅れていようが,何であろうが,来ないときは来ないし,連絡もつかない。そこで,新人を,スーパープログラマ担当に任命し,毎日自宅まで迎えに行かせた。(以下,censored)


プロジェクトルームから滞在中のホテルまで15分だったので,通勤は楽だった。そのうち週末にもほとんど帰れなくなった。いろいろ問題はあったが,それでも何とか予定どおりにシステムは稼働開始した。


ところが,そこから先がまた大変だった。とにかくモノの数とシステムの数字が合わない。ユーザから「システム上は在庫があるから船を手配したのに,現物はなかった。コンテナのチャーター代どうしてくれる!」などと怒鳴り込まれたこともあった。本来はシステムが自動計算してくれるべきところ,裏で人が夜な夜な検証し,誤りがあれば再計算し直すという日々が続いた。まさに裏で小人が働いているシステムだった。


システム稼働後の方が大変だったプロジェクトだったが,2カ月ほどたったころにようやく少しずつ落ち着いてきた。ときは2000年,ITバブルで,1999年ころから急に周りで転職,起業する人が増え始め,そわそわする人が増えてきた。