Footprints

弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

会社勤務時代(5) 4つ目のプロジェクトII

2002年10月に基本設計がスタートした大規模プロジェクト。


残念ながらプロジェクトは開始早々から,なかなか思ったように進まなかった。最初の月から進捗の遅れが報告され,徐々にそれが拡大した。開発ベンダの要員はどんどん増えてきているが,一部のメンバーを除いて自分の目の見えないところで作業しているので,その遅れの実態も見えにくくなってきた。


そのうち,いつも肚の中に何か嫌なドロっとした感覚が生じるようになり,遅い時間に帰宅しても眠れない日々になった。休日はほとんどなく,わずかな半日,数時間の休日も,心が落ち着かない状態になった。それでも当時は「体が,心が壊れてしまう」という感覚は生じなかったし,実際に壊れることもなかった。


2003年2月末。設計から一部の機能で開発に入り始めた時期に,遅延の責任はユーザにあると主張する開発ベンダからの追加報酬要求があった。すなわち,遅れたのは,要件提示に問題があり,当初の想定を超える開発要求があったというものである。これを呑まないと撤退することもチラつかされた。会議では怒号が飛び交うようになった(本当にドゴウが飛んだ。今でも私は自分にかけられた言葉を忘れない。)。


連日深夜まで,開発範囲の縮小や,仕様変更とそうでないもの(設計上の漏れ等)の仕分けが行われたりして,追加報酬額の減少の交渉,調整が続けられた。当初の追加報酬要求額からは3分の1くらいまで減少されてきたものの,着地点はなかなか見えなかった。他方で,クライアントの側も追加予算の枠をどこまで取れるかということが協議,検討されていた。しかし,いつしか両者の関係を修復する方向ではなく,どこで終止符を打つかという方向に議論が変わっていった。


クライアントの管理部長に「一度,弁護士事務所に行って相談しましょう」と言われ,クライアントの管理職2名に同行して顧問弁護士の事務所を訪問した。生まれて初めて会った弁護士は,私のちょうど50歳年上で,当時すでに80歳超,司法修習1期だった(すべて後から知ったこと)。


システムとはどんなもので,「開発する」とはどういうことか,という説明に四苦八苦し,なかなか本題にたどり着けない。当時のクライアントの総意として,システムは絶対に開発しなければならないが,開発ベンダとの関係は維持できないということで,「契約解除しかない」という要望が伝えられた。確か2度目の相談くらいのときだったか,その場で原稿用紙に手書きの内容証明郵便が作成され(書いたのはクライアントの一般職女性社員だった。),郵便局に走った。内容証明郵便というものの存在や現物を見たのはもちろん,そのときが初めてだった。このとき,2003年3月末。


内容証明郵便の送達とともに,現場の作業は凍結され,交渉も止まった。しかし,システムの稼働というミッションだけがクライアントと我々の会社に残ったため,前年のベンダ選定の際の「次点」の開発ベンダにコンタクトし,突貫工事を委託した。結局,基本設計書は,我々の会社でほぼすべて作り直した。(このあたりの話は,なかなか細かいところまでは書けないな・・)


そうして,かなりアクロバティックに,開発ベンダだけが切り替えられて,作業の手戻りは多々あったものの,プロジェクトが再び進行しだした。


ちょうど,そんなころ,2003年6月。


普段はクライアント先に常駐しているので,自分の会社にいることはめったになかったが,その日はたまたま会社に戻っていた。クライアントから,急ぎの電話がかかってきた。


「訴状が届きました!」