Footprints

弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

会社勤務時代(4)転職・・4つ目のプロジェクト開始

システム稼働後の方が大変だった大阪のプロジェクトだったが,2カ月ほどたったころにようやく少しずつ落ち着いてきた。


2000年といえば,ITバブルが崩壊へと向かう年。コンサルティング会社の同僚が,新興ネット企業に転職したり,新たに起業していった。とにかく,こんなプロジェクトごとに人生をすり減らす生活から脱却したいという思いと,時流に乗り遅れる,という焦りもあって,忙しさがひと段落すると転職を真剣に考えるようになった。


そんな2000年5月,大阪を離れることになった。


知人が興した会社,元同僚から勧められた会社など,ひそかに転職活動を続ける折に,あるエージェントから声がかかった。これから興そうとするコンサルティング会社の創業メンバーを募集しているという。私を候補に挙げたのは,新人のときの最初のプロジェクトで私のことを見ていた先輩だった(直属の上司部下ではなかった)。


大阪のプロジェクトを離れて,次のプロジェクトが決まりかけていたが,いったん決まればまた1,2年動けなくなってしまう。新しい会社に行くなら早い方が面白い経験ができるのではないか・・と,あまり深く考えないまま,退職の手続をとった。


そして,2000年6月,新しいコンサルティング会社に加わった。創業はその前月5月で,会社には取締役が3人いただけだった。取締役以外の従業員は私一人。もっとも,その後,急速に人が増えて,半年後には20人近くまで増えていた。表参道のヘアサロンでも入ってそうな明るい事務所だった。


まもなく人が増えていったので短い期間だったが,ゴミ出し,掃除,買い物など,なんでもやった。会社の仕組みや方向性,さらには社名を考えるための雑談・会議が毎日のようにあって,なんだかベンチャーらしい雰囲気が楽しかった。


そんなころに,「老朽化したメインフレーム(ホストコンピュータ)を全面刷新したいと考えている老舗企業がいるから話を聞きに行ってほしい」という話が舞い込んできて,私が話を聞きに行くことになった。2000年9月。


数社のベンダが集められて,まずは企画フェーズのコンペが行われた。


首尾よく受注することができたが,設立間もないベンチャーに人手が足りず,別途協力会社から借りてくるという綱渡りで4か月の企画フェーズを乗り切った。本格的なオープン系基幹系システムの開発(当時はダウンサイジングという言葉が使われていた)のための概算見積をし,開発ベンダ選定のためのRFPを作成するというのが企画フェーズのアウトプットだった。作成したRFPの本体は100頁ほどで,付属資料を合わせると5cm厚のファイルいっぱいになった。


市況の悪化などにより,しばらく中断してしまったが(この中断の間にも細々といくつか案件はあったがここでは措くことにする),いよいよ本格的な開発プロジェクトが進むことになった。企画フェーズを担当したコンサルは,開発の元請けになるのではなく,あくまで開発ベンダはクライアントとの直接契約し,コンサルはコンサルで,クライアントのサポートをするというスキームだった(今でいうPMO部分を担当することになる。)。RFPを交付してベンダ6社程度に説明をし,各社からの提案を受けて評価するという立場だった。


めでたく開発ベンダが決まり,設計から開発まで約1年,総費用フタケタ億円のプロジェクトが2002年10月にスタートした。稼働予定は2003年10月。ウォーターフォール型でいうところの,要件定義までは完成しているという前提で,基本設計からのスタートだった。明らかに分不相応であったが,当初から関わった関係で,私がプロジェクトリーダとなり,クライアント,コンサル会社(私の所属していた会社),開発ベンダのリソース,予算,進捗,スコープなどを管理する立場となった。当時30歳。基本設計がスタートした月に(このブログでたびたび登場する)長男が生まれている。


基本設計開始時点では,クライアントのプロジェクトメンバーが5名ほど,私の会社で5名ほど,開発ベンダが20名ほどの陣容だったように記憶している。