Footprints

弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

「理解する」と「覚える」

春休みに基本書を読み返してノートを作り直したり,たまに答案を書いてみたりしていると,今さらながら,「理解する」と「覚える」ということの違いと重要性を考えさせられる。


ロースクールの先生の多くは,予備校風の勉強スタイルが嫌いのようだ。先生方の理解している「予備校スタイル」の典型は,「とにかく覚えて,答案に吐き出す」というものだろう。そんなわけで,講義中に,「このへんは,とても重要なので,しっかりと覚えてもらって・・,あ,『覚える』ではなくて,ちゃんと『理解して』もらいましょう」などと,「覚える」と「理解する」の違いをことさらに強調しようとするきらいがある。


自分なりに,「理解する」ことと,「覚える」ことの意味を整理してみると,答案で力を発揮するには,「理解する」ことも,「覚える」ことも,どちらも重要だと思う。


「理解する」とはどういう状態なのかを説明するのは難しいが,人の話を聞いたり,教科書,判例の解説などを読んで,「なるほど」と思える心理状態だと思う。そして,人との会話を通じて,論理を説明し,相手を理解させられる状態,だとも言えるだろう。また,試験問題を見たときには,「こういう論点があるな」という問題点に気づいて,解決までのストーリーを組み立てられる状態,だとも言える。


このように「理解する」の意味を,ここまで広くとらえるならば,司法試験合格のためには,「理解する」ことのみが重要だ,と言えるかもしれないが,そうでもない。やはり,「覚える」ことも必要そうである。


ここで,「覚える」とは,「理解」したことを答案で適切に表現するために,有用なフレーズのストックを短時間でアウトプットできるような状態に備えている状態だとする。いくら「理解」していても,答案で表現するには,時間的制約があるから,コンパクトで正しく表現するためにも,やはりフレーズを用意することは避けて通れない。製造業にたとえていうならば,いくら品質のいい製品をつくる技術があっても,オーダーが入ってから生産していてはリードタイムがかかり過ぎるから,半製品・部品を効率よくラインに配置して,オーダーに対して即出荷できるように備えること,といえるかもしれない。


大学の先生が忌み嫌う「論点主義」というのは,「理解する」と「覚える」のバランスが,「覚える」に傾きすぎている状態なんだと思う。「覚える」だけでは,問題のパターンが無限にある以上,対応しきれないのは当然だし,吐き出したフレーズ間のつながり,というかストーリーの組み立ては,きちんと「理解」していないと,読みやすい答案にはならない。つまり製造業の例だと,用意しているパーツの組み立わせが適切でないから,顧客のオーダーに合っていない状態。


だから,当たり前のことなんだろうけれど,「理解する」と,「覚える」はどちらも欠かせない。そこで,自分のこれまでの状況を振り返ってみると,やはり「理解する」ことに注力していたと思う。これまでは,それはそれで間違っていなかったと思う。理解してなきゃ,覚えようがないわけだから(ムリして覚えても,たぶん,お気に召さない答案しか書けなかっただろう)。


自分が答案を書いて,講評を聞いたり,読んだりすると,「そう,そう,だいたい書けてる」と思っても,実際の評価がそれにともなわないことがある。そういうときは,自分の答案を読み返すと,まどろっこしい表現だったり,ボキャブラリが貧困だったりする。そこは,「覚えた」フレーズでスムーズに書けば,時間の節約にもなるし,好印象にもつながったのではないか,と思う。しかし,現時点では,まだまだ「理解」が足りてないという原因のほうが多い。


そんなわけで,最後の1年は「覚える」ことにも少しは力を入れる。でも,やはり基本的に「理解する」の勉強は継続する。そして,あと一つ,優秀な答案の作成には,「センス」という,「理解する」にも「覚える」のどちらでもない,第三の要素が存在する,と考えているのだが,それについては,今日は長くなりすぎたので,別の機会に考えることにする。