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弁護士・伊藤雅浩による仕事・趣味・その他雑多なことを綴るブログ(2005年3月開設)

過労死が認定された判例

夏休みの勉強中に,ちょっと興味深い判例を見つけた。事案としては格別珍しいものではなく,過労死として使用者側の責任が問えるか,というもの。ただ,亡くなった人の仕事が私の前職と近く,あまり他人事とは思えなかったので,思わず一審,控訴審最高裁まで読んでしまった。


最高裁は,最判平12.10.13労判791-6であるが,事案の詳細は控訴審(東京高判平11.7.28労判770-58)に詳しい。


労働法の判例として多少有名のはずだが,裁判としての主な争点としては,33歳という若さで脳出血によって死亡したことと,業務との因果関係が問題となっている。また,本人が前から高血圧だったことや,会社から検査受診の指示に従っていなかった,という固有の事情によって損害賠償額の減額が認められるか,ということも争点になっていた。


結果としては,裁判所はいわゆる過労死の認定をしているし,本人の体質ときちんと検査を受けていなかったことによって賠償額が減額されている。私が興味深かったのは,その本人の業務内容と死亡にいたる経緯である。


死亡時の年齢は33歳で,現在の私と同じ。仕事は,判決文を読んでみると,金融系システム開発のプロジェクトにおける「プロジェクトリーダー」というポジションのようだが,その実質は,意思決定者というより小規模のチームのリーダーとして進捗管理,要員管理,品質管理,連絡調整などのワークを行っていたようである。その人が勤めていた会社は,かつて私も一時的にいっしょに仕事をしたことがある会社なので少し知っている。


「激務であった」ということを直接的に立証するには労働時間が有効な証拠となるだろうから,この紛争でも労働時間にフォーカスがあたっていた。死亡直前の1年間で所定外労働時間(いわゆる残業)は約1000時間。最大値は月間303時間(残業135時間)で,12日間連続勤務という状態だった。


これを見る限り,システム開発コンサルティング業界で働く人の8割はこの数値を超えた経験があるんじゃないかと思う。私もピーク時は月間労働時間400時間(裁量労働制だったが,1日8時間を所定労働時間とすると,残業240時間ぐらい)なんてこともあったし,40日ぐらいの連続勤務もあったから,そのときに突然死していれば死亡と業務との因果関係が認定されたと思う。


労働法の授業の中では,「そもそも月間100時間を超える残業なんていうことがあることじたい,信じられませんね」なんて話を聞いたりもするが,現実にはそんなことを言ってられない。


だらだらと長くなってしまったが,ここでは,これ以上の法律的な議論はしないし,業界の構造,慣習についても議論はしないが,とにかく長い判決を読んでいろいろ考えさせられる事案だったことは確かだ。最後に,控訴審で裁判所が認定した事実関係の一部に,特に状況が目に浮かぶ部分があったので,深い意味はないけれど引用しておく(一部仮名に変更)。

「本件プロジェクトは、銀行業務に関するシステムの開発であったところ、SEの仕事を一〇年以上経験し、平成三年一〇月にシステム経理を退社してコンピュータースクールの講師をしているAにとっても、銀行業務のうち情報系に係わる仕事は内容的に難しいものであり、同様に、富士銀行の外貨預金システム設計・開発に携わった経験のあるBにとっても困難な内容であり、本件プロジェクトの内容は相当高度なものであった。また、平成元年五月ころの予定では、本件プロジェクトは、約七万五八〇〇ステップで完結するとされていたが、実際には一一万三八五四ステップにまで増加した。
 本件プロジェクトは、平成元年五月三一日付で作成された見積書(乙三の5の3)に記載された予定では,平成元年一〇月末日までにシステム開発を終了し、同年一一月からはシステムテストを行うというものであり、期間が限られていたため、作業が間に合わず、同年一一月一三日にシステムテストが開始されてはいるものの、本来行うべき結合テストを省略するなどしていたため、その後システムテストの段階で多数のトラブルが生じた。

 これに対し、発注者であるNCS及び日債銀の担当者は、太郎らに対し、作業が遅れていることを指摘して、早く作業を完了するよう繰り返し要求し、特に、平成元年八月九日には、C調査役らが、太郎らに対し、自ら太郎らの面前で今後のスケジュールを作成し、これを示すなど早期の作業完了を求める強硬な姿勢を示した。更に、システムテスト開始後には、NCS及び日債銀からの太郎らに対する要求はさらに厳しくなり、平成元年一二月一日には、必要な結合テストを行わなかったことに対し、厳しく苦情を述べ、平成二年一月一七日には、土曜日にも出勤すること、午前九時から午後九時までは全員が残り、午後九時から午後一一時までは当番が残ってシステムテストサポートを行うことを要求した。特にプロジェクトリーダーである太郎に対しては、NCS及び日債銀の要求は厳しく、太郎は、実際は当番日以外であっても、早く帰ることができないような状況になっていた。 

 太郎は、平成元年五月にプロジェクトリーダーに就任して以降、死亡に至るまで、本件プロジェクトについて責任を負う立場にあり、ユーザーや下請会社との調整、交渉の中心となっていた。このため、本件プロジェクトのトラブルについて、太郎が、専らユーザー及び下請会社からの苦情の矢面に立ち、いわば板挟みのような状態になることがあった。特に、平成二年三月ころからは、システム経理から派遣されたSEであるA及びBは、システム経理の従業員が設計した部分のトラブルに対してのみ責任を負い、それ以外はすべて太郎が責任を負うという取り決めがされ、また、システム経理のSEはあくまで一審被告に対し派遣されたものにすぎず、ユーザーに対し最終的な責任を負うものは一審被告であったこと、一審被告の従業員で当番としてシステムテストサポート業務を行っていたのは太郎のみであったこと、その一方で、平成元年一一月以降プロジェクトマネージャーに就任した本来の責任者であるDは、前任のEが退職してからその業務を引継いだものであって、それまでの進捗状況を必ずしも把握しておらず、また自らも複数のプロジェクトのマネージャーを兼務して多忙であったため、本件プロジェクトについての業務の多くを太郎にまかせていたことなどから、太郎にかかる精神的負担はさらに増したと推認される。」